弁護士黒澤真志のブログ

虎ノ門(西新橋)で法律事務所を経営している弁護士のブログです。日常の出来事や普段考えていること等について、フランクに綴りたいと思います。

「どーせ無理」という言葉の問題

まずはこちらの動画をご覧ください。

株式会社植松電機代表取締役お植松努さんのTEDにおけるスピーチ動画です。

 

www.youtube.com

 

とある勉強会で話題にあがったので見てみたのですが、とても良い内容でした。

スピーチの中にもとても興味深い話題が多いのですが、1点だけ取り上げたいと思います。それは「どーせ無理」が諸悪の根源だということです。

 

まず、お金を得る手段は、大きくわけて、

・価値を作る

・奪う

があるのだと思います。

たとえば、物を売った場合には、その物の価値を提供することになるので、お金をもらうことができます。また、何らかのサービス(たとえば、マッサージなど)を提供した場合にも、その価値相当のお金をもらうことができます。これが「価値を作る」場合だと思います。

他方で、お金を盗むことによっても、お金を得ることはできます。また、本来は価値がないのに価値があるように見せかけて、これを売るような場合にも、お金を得ることはできます。しかし、これらは、何らの価値も提供しないで、あるいは不十分な価値の提供でお金を得ているので、「奪う」場合にあたることになります。

このように、お金を得る手段は2つあるのですが、本来的にはお金というのは価値を表すものなので、前者があるべき姿ということになるかと思います。

ところが、後者の場合も出てきてしまう。それはなぜか。

 

それは「生み出せないから」です。

そして、生み出せない原因が「どーせ無理」という言葉なのです。

みなさんも、「どーせ無理」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。

私も、高校3年生の頃、一念発起して早稲田大学法学部を目指すことにしたのですが、周囲の方から「どーせ無理」という言葉を聞きました。

しかし、動画にもあるように、ライト兄弟エジソンといった発明家は、不可能と思われたことを成し遂げてきたのです。本当は、やってみなければわからないのです。

ところが、何かに挑戦するためには、失敗の不安がつきまといます。そして、挑戦を諦める言い訳として、「どーせ無理」という言葉を使ってしまうのではないかと思います。

また、周囲の人も、挑戦者をみると、その人と比べて自分が何もできていないことに焦らされたりすることもあるかと思います。そのため、その挑戦者に対して「どーせ無理」という言葉を投げかけて、挑戦を諦めさせようとします。

このように「どーせ無理」という言葉によって、「無理」だと思い込んでしまった人は、自分で価値を作れないので(と思い込んでいるので)、奪うようになってしまうとのことです。

この点はなるほどと思いました。

そして、「奪う」を行うまでに至らない人でも、「どーせ無理」と思い込んでしまった人は、挑戦している人の邪魔をしたり、妬んだりしてしまうのではないでしょうか。

妬みが百害あって一利なしであることは前の記事でも述べましたが、いずれにせよ、「どーせ無理」という簡単な言葉が、悪い方向に導いていることは明らかであると思います。

 

「どーせ無理」を排除して、みんなが「価値」を作るような社会になれば、より良い世界になっていくのではないでしょうか。

植松さんがおっしゃるように、「どーせ無理」は子供のころは誰も知らなかったのです。

「どーせ無理」という言葉は、ついつい使いたくなってしまいますが、この言葉が出そうになったら意識的に飲み込んで使わないようにし、頭を切り変えて、その相手の方と、できる方法がないかを一緒に考えていくようにするのが良いのではないかと思います。

「学問のすすめ」を読んでみた

先日、旧1万円札でお馴染みの福沢諭吉が記した「学問のすすめ」を読んでみました。といっても、私が読んだのは現代語訳バージョンですが、内容的にはほぼ同じだと思います(以下では現代語訳バージョンの記述で引用します。)。
 
この本は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な言葉から始まりますが、個人の尊重や平等に関する思想であり、現代でも通用している話です。
学問のすすめ」は、本当に重要なことが書かれております。この本は、100年以上前に書かれたものですが、なのになぜ、この本に書かれている内容が社会に浸透していないのかと、少し憤りを感じました。
福沢諭吉は、賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものであると述べています。そして、同人がいう「学問」は、和歌や詩などの実用性のない学問ではなく、「普通の生活に役に立つ実学である」としています。
私は学生時代のときに常に疑問に思っていたのは、義務教育の内容です。中学で習う国語、数学、理科、社会などは、これを学んでどうするのか、非常に疑問でした。なので、勉強にも身が入らず、大学受験のためだけに勉強したに過ぎません(なので、大学受験が終わった直後に忘れてしまったものも多いです。)。実際に社会に出てからも、これらが役に立った記憶はありません。
義務教育で学ぶべきことは、決して「国語」などの教科ではなく、社会に出てから一人前の独立した個人として、自分の頭で考え、自身の強みを活かし、人生を切り開いていけるようにする方法だと考えます。そのためには、どういう考えをもち、どういう思考でいるべきか、この本にはしっかりと書いてあります。興味がある方は是非読んでみてください。
 
個人的に興味深かった点を一つ取り上げると、福沢諭吉は、「怨望」(他人の幸福をねたんだり、うらやむこと)は最大の悪徳であると述べています(なお、欲張り、ケチ、贅沢、誹謗の類は、大きな欠点だけども、その本質は悪くないと述べています。)。「怨望」だけは、陰険で進んで何をするのでもなく、他人の様子をみて不平をいただき、他人に多くを求め、その不平を解消するために他人に害を与えようとするものであり、公共の利益を犠牲にして私怨を晴らすものであると述べています。
SNSなどを見ていると、世の中は、格差社会のせいか、怨望に溢れていると思います。インターネット上では有名人や特定の者に対する誹謗中傷がはびこっています。最近は「上級国民」などの用語が登場したりしていますが、これもある意味、怨望の表れかと思います。
福沢諭吉は「怨望」の原因を「窮」の一言に尽きると述べています。すなわち、人間の自然な働きを行き詰まらせる状態です。確かに、最近の世の中は閉塞しているように感じますよね。その原因として考えられるのは、インターネットの発達によって情報が溢れ、簡単に他人と他人を比較できてしまうことが一因なのではないかと思いますが、いずれにせよ、「窮」により「怨望」が誕生し、インターネット上において誹謗中傷などがはびこっているのではないかと思います。これを解消するためには、その原因を知って、それが自分の責任であることを理解することが必要であると、福沢諭吉は述べています。
この点に関して思うのは、「窮」は幻想なのではないかということです。つまり、多くの人は「窮」の状態であると思いこんでいるだけで、実際はそうではない、ということです。科学技術の進歩等により、私達の生活は日増しに良くなっています。ですので、実は個人ができることは多くなっているのです。なのに、それに気づけない。その一因は、国語や社会などの現実に役に立たない勉強ばかり教えている義務教育にあると考えます。私は、できることならば、多くの人に対してそのことに気づいてほしいと考えております。
 
最近は、メジャーリーガーの大谷翔平が大活躍していますが、私達は大谷翔平になることはできません。妬んでも意味がないのです。そうではなく、まずは自分自身ができることは何かを考え、それを実行していくことが必要なのではないかと考えます。妬む気持ちが自然に湧いてくるのは、もちろんやむを得ないことではあるかと思いますが、それをそのままにしておいたり、あるいは誰かを傷つけることによって晴らそうとするのではなく、発展的に解消することが求められることかと思います。
 
 

現代語訳 学問のすすめ (ちくま新書)

 

過去に漫画版も読んだことがあるのですが、読みやすくおすすめです↓

 

学問のすすめ (まんがで読破)

 

人生は全て自己責任と考えた方が得

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みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
年末からかなり業務過多になってしまい、なかなか更新できていませんでしたが、やはり何かを発信していくことは大切なことだと思いますので、改めて続けていきたいと思います。

 

さて、今回の話題ですが、自己責任についてです。
誰もがそうだと思いますが、日常を過ごす中で、嫌な出来事に遭遇することはありますよね。
望ましくない結果が起きてしまった場合、その原因が自分にある場合もありますが、「アイツのせいでこうなってしまった!」というように、他人のせいだと考える場合もあるかと思います。
中には、「自分の状況がよくないのは、国の施策が悪いからだ!」と考える方もいるかと思います。
しかし、どのような状況でも、「全てのことは自分に責任がある」と考えた方が得だと、私は考えます。
あくまで、「得」という価値基準からの考えになります。
このようなことを言うと、「自分を責めて責め続けるようなことをしたら、落ち込んで何もできなくなるよ!」と考える方もいえるかもしれませんが、私がいう「自己責任」は、自分のことを責め続けることを意味しません。

 

具体例を挙げて説明したいと思います。
たとえば、「上司が嫌な仕事ばかり押し付けてくる」ということで悩んでいたとします。
その場合、その上司の仕事の割り振りの能力のなさを嘆いて、上司を恨むことはできるでしょう。
友人に愚痴を言うこともできます。
しかし、本当にその上司の能力が不十分であったとしても、このような行動を取っていては何も解決しません。
確かに、友人に愚痴を言えば精神的に楽になるかもしれませんが、事態は何も変わっていません。
ここでは、一旦は、「全て自分が悪い」(または「全て自分が悪かった」)と仮定する必要があります。
具体的には、自分に全責任があると仮定したうえで、何か取るべき行動があるのではないか(あったのではないか)、と考えることが必要だということです。


上記の例でいうと、自分で取ることのできた行動は、いくらでもあります。
例えば、
・その上司とじっくり話し合う
・その上司のコントロール方法を研究してみる
・その上司の上の上司に相談してみる
・他の同僚と具体的な対応策について話し合ってみる
・その上司を抹殺する(これは冗談です笑)
等、いくらでも考えられるかと思います。
このようなアイデアは、その状況を上司の責任にしていては、思いつかないのではないかと思います。
他人のせいにした場合、「自分に責任がないのであるから何もする必要はない」という考えになってしまうのではないでしょうか。
それでは取るべき行動が見えてきませんし、事態は変わらないでしょう。
一旦は、自分の責任であると仮定し、じゃあどうするか(どうすべきであったか)を考えるか否かが、状況の改善の可能性を高めることに繋がると考えます。
なので、「全て自己責任」と捉えた方が、得ということになります。

 

ちなみに、全て自己責任と捉えたうえで、取るべき手段が何もなかった場合には、それは諦めるしかありません。考えたり、悩んだりしても、解決できないことなので、時間だけを浪費してしまうことになります。感情的に難しい面もあるかもしれませんが、そのときは、それを受け入れて、前を向いて進むしかないでしょう。

 

つまるところ、
結局は、誰もあなたの人生の責任を取ってくれないのです。
なので、自分でなんとかするしかないのです(なお、当然ですが、自分の責任で専門家等の力を借りることはアリです。)。
自分でなんとかするのはツラいし、本当は他人が自分のために動いてくれて解決してもらえるのがよいと思いますが、そういうことはほとんど起こりません(もし起きたら、それは非常に幸運なことです。それを当たり前と思ってはいけません。)。
主体性をもって、常に「自分に責任がある。では、どうするか?」を考え続けることが、人生を前に進めるためのコツだと思います。

 

みなさまも、試してみてはいかがでしょうか。おそらく、世の中や物事の見方が変わってくるのではないかと思います。

人生の過程で感じる「ツラさ」について

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嫌な感じの題名で始まりましたが(笑)、
みなさんも、生きている中で嫌なことや困ったことがあって、生きることがツラいと感じることはあるのではないでしょうか。
ツラいことって嫌ですよね。避けたいことですよね。
多くの人がそのように考えるのではないかと思います。
 
しかし、最近、よく思うようになったのが、
 
 
「もしかしたら、ツラい状態が普通の状態なのではないか」
 
 
ということです。
 
まず、朝起きることもツラくないですか?朝強い人にとってはそうでもないかもしれませんが、苦手な人も多くいるのではないかと思います。
ベッドから起き上がるのもツラいですし、そこから歩いてトイレ行くことも、場合によっては辛いかもしれません。
それから食事をして、着替えて、職場に向かうといった動作も必要となります。
職場に着いたら嫌な仕事もしなければならないでしょうし、仕事以外で何かに挑戦するにしても、ツラいことは待ち受けています。
捉えようによっては、全てのことを「ツラい」と考えることもできるでしょう。
ですので、「ツラい」という状態こそが、普通の状態といえるのではないでしょうか。
 
人によっては、「自分は本来、幸福であるべきなのに、なんで今はこんなツラい状態なんだろう」と考える方もいると思います。
そして、それを他人のせいにしたりして、人を憎んだり、羨んだりしてしまうこともあるかもしれません。
 
しかし、「ツラい」という状態が普通の状態なのです。もし、日々の生活の中で、嬉しさや喜び、幸福を感じることができたのであれば、そのことの方が、極めて特別なことだということです。
なので、もし人生の中で幸せを感じることができたのであれば、それに甘んじてはいけないでしょう。しっかりと感謝すべきだと思います。
少なくとも、それを「当たり前のこと」と思ってしまってはいけないと思います。
もし、それを「当たり前のこと」ないしは「あって当然のこと」と考えてしまうのであれば、人生はそのように出来てはいないので、ツラさとのギャップに苦しみ続けることはもちろん、幸福さえも感じることはできず、一生不幸であり続けることになってしまうでしょう。
 
格闘家兼YouTuberのの朝倉未来さんは、ご自身が上げている動画の中で、「死はご褒美」と言っていましたが、それも一理あると思います。人生ではツラさを味わい、もがき苦しみながらも進むことが当然であり、その果てに訪れた死はご褒美なのかもしれませんね。
ツラい中で、もがき苦しみながら突き進んでいく、それが人生の本質なのではないでしょうか。
 
みなさんも、是非、ツラくも素晴らしい人生を楽しみましょう!

超初心者お勧めの料理本

久しぶりの更新となりましたが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。

多くの方は、新型コロナウイルスの蔓延に伴う緊急事態宣言により、自宅で過ごすことを余儀なくされたのではないかと思います。

私も、特別な用事がない限り、家に籠もっておりました。

家に籠もるためには、外食はできないので、料理をせざるを得ませんでした。

実は、私、これまで37年間生きてきた中で、一度も料理をしたことがありませんでした(全部外食でした。。)。

なので、料理の知識はゼロで、野菜の扱い方もわからない状況でした(タマネギのむき方とかも分かりませんでした。)。

よく聞くのは、クックパッドで調べて料理を作る、ということでしたが、超初心者の私にとっては、調味料が食材が多く登場するため、これでさえ難易度が高く感じました。

そこでたどり着いたのが、↓の「ゆる自炊BOOK」という本です。

 

食べようびMOOK  ゆる自炊BOOK

食べようびMOOK ゆる自炊BOOK

 

この本は、3ステップで、まずまずの料理が作れるうえ、冷蔵庫に置いておいて損はない食材が示されていたり、野菜の切り方が書いてあったり、また、腐りかけの野菜を見分ける方法など、初心者が知りたいことがコンパクトに纏まっています。

これに従って、片っ端から作っていくと、料理の感覚が掴めてくると思います。

最近では、「この料理に、この食材を入れてもよいのではないか」というようなアレンジまで出来るようになり、色々と応用もできるようになりました。

今まで料理をしたことがなかった私が、誰にも聞かず(但し、少しだけグーグルで調べたこともあります。)、料理を作れるようになったのは、この本のお陰です。

Kindle版の方が、買い物に出かけたときに、その場でスマートフォンで必要な食材や調味料を確認できるので、便利です。

 

料理を作るようになって良かったことは、健康になったことです。

いままで外食ばかりだったのを、自炊するようになった結果、おそらく、野菜を多く採るようになったからだと思いますが、とても体調が良くなりました。

まさか、コロナのお陰で、逆に健康になるとは・・・。

このような状況ではありますが、その中で、環境に適応し、常に成長を心懸けることが重要ですね。

 

という訳で、料理の超初心者の方へのお勧め本の紹介でした(^^)

いままで料理をしたことがない、一人暮らしの男性など、この本で料理を始めてみてはいかがでしょうか。 

死と向き合うということ

2020年3月20日、ワニ君が亡くなりました。
何の話かといいますと、こちらです ↓

 
そうです。漫画での話です。
この漫画は、作者のきくちゆうきさんが、「100日後に死ぬワニ」という題名で、ツイッター上に、100日間、毎日4コマ漫画を投稿し続けた作品で、2020年3月20日に100日目を迎えたというわけです。
最初から宣言されていたとおり、100日目でワニ君が亡くなりました。
内容については、該当のツイッターを確認するか、今後、書籍が発売されるとのことなので、そちらをご確認いただければと思います。
 
私は、たまたま1日目にこのツイッターの投稿を発見したので、100日間、毎日19時に更新されるこの漫画を見続けてきたのですが、時が経つのは早いですね。
先日まで、まだ10日しか経過していないと思っていたのに、あれよあれよという間に50日が経過し、残り10日となり、当日を迎えてしまいました。
当日は、ツイッターを開く際に、心がとても重かったです。
 
この作品は、「死」をテーマにしておりますが、
これほど正面から死を捉えた作品は、今まであったでしょうか。
作者のきくちさんは、とても仲の良かった友人が、ある日突然、事故で亡くなってしまった経験を元に、この作品を書くことになったとのことです。
多くの人は、あまり死について考えないと思います。
大抵の人にとって、「死」とは、とても怖いものであるし、他人に起こってしまったら悲しく思うものです。
なので、目を背けたくなる気持ちはよく分かります。
でも、死は、人間にとって、少なくとも、避けては通れない出来事の一つなのです。この世に生まれた誰もが、死を迎えることになります。
だからこそ、死について、しっかりと向き合って、考えておくことは必要なのではないでしょうか。「死」を前提とした場合、この世界、人々、家族、友人、あるいは自分をどのように捉えるのか。どのように位置づけるのか。どのように構成するのか。
この作品は、「死」がある日突然訪れることも示されております。なので、現在と未来という時間軸の中でも、改めて死(ないしは生)を捉え直す必要もあるのではないかと思います。
 
以上のように、この作品は、突きつけられた死(自分の死も、他人の死も両方含まれると思います。)について、自分はどう捉えるのか、とても考えさせられ、本当に貴重な機会を与えてくれるものだと思います。
 
そこで、声を大にして言いたいのは、
 
電通案件」と騒いでいることは、非常にもったいないことなのではないか、
 
ということです。
 
電通案件」が何を指すのかというと、100日目の投稿が終わった直後に、この漫画のグッズ販売や単行本化のほか、映画化などが発表され、関連会社の中に電通が含まれていたことによって、「電通が金儲けのために最初から仕組んでいたことだった」として、この作品が電通案件と言われるようになりました。
実際には電通はほとんど絡んでいなかったようですが、少なくとも、100日目の投稿直後に一気に商業化されたことに、嫌悪感を感じた人も多かったのではないかと思います。
 
私も、確かに多少の違和感は感じました(あまりにも展開が早すぎたので)。
しかし、この違和感は、プロモーションを担当した企業に向けられるべきものであって、作品自体に向けられるものではないはずです。冷静になって考えれば、作品とその違和感を向けられるべき対象は、全く関係ないはずです。
プロモーションを担当した企業も、設立から間もない企業であったようで、経験が十分ではなかったのかもしれません。作者のきくちさんは、担当企業の熱意を感じたので依頼することにした旨を語っており、少なくとも、その企業は、この作品をもっと世間に広めようという想いで動いていたことは間違いないことだと思います。
 
いずれにせよ、作品自体に、何の不備も落ち度もありません。
なので、
 
「せっかくの作品が、せっかくの機会を与えてくれたのに、これを逃してよいのか」
 
ということを、しっかりと考えるべきではないでしょうか。
もしかしたら、死と向き合いたくないがために、「電通案件」と騒ぐことによって目を背けている人もいるのかもしれません。
怖いかもしれませんが、もしそうであれば、その自分の気持ちに気づいて、1歩でも前に踏み出してみると、より強い自分になれるのではないでしょうか。
 
ワニ君の死が無駄にならないように。

離婚の予防法務3〜親権を獲得するために〜

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親権というものがあることはご存じかと思いますが、
離婚する際には、もし20歳未満(2022年4月から18歳未満になります)の子供がいる場合には、父母のいずれかを親権者に決めなければなりません(民法819条1項)。
父母の協議で決められない場合には、家庭裁判所が審判で強制的に決めることになります。
したがって、子供の親権を獲得したいと思っている方は、審判に備えて、親権を認めて貰えるための事前準備を行っておく必要があります。
 
親権の獲得に関して、審判で考慮される要素としては、①父母双方の事情(監護に関する意欲と能力、健康状態、経済的・精神的環境、居住・教育環境、子に対する愛情の程度、実家の資産、親族・友人等の援助の可能性)、②子の側の事情(年齢、性別、兄弟姉妹関係、心身の発育状況、従来の環境への適応状況、環境の変化への対応性、子自身の意向)、③監護の実績・継続性(現状)の尊重、④母性、⑤子の意思、⑥別居・離婚後の親子の交流の許容性(寛容性)、⑦子の奪取の違法性等が挙げられます。
 
以上の中で、事前に押さえておきたい重要なものは、
 
③監護の実績・継続性(現状)の尊重
 
です。
 
すなわち、子供と同居し、面倒をみてきた実績ないし状態が、審判において、親権が認められるための重要な考慮要素となるのです。
 
親権の判断においては、上記④の「母性」も重要です。
最近では、父母の役割が変化しているとはいえ、やはり多くの家庭では、母親が子供の面倒を見ていることが多いかと思われます。
したがって、母親の方が親権獲得にあたって有利であることは間違いありません。
そうだとしても、離婚において親権を巡って争いが生じ、協議が整わない場合、多くのケースでは別居することになります。
この別居の際に、
 
子供が父母のどちらと同居することになるのか
 
が極めて重要となります。
離婚協議が整わない場合、弁護士を入れての交渉や、離婚調停、離婚裁判などを経て離婚や親権を決定することになるのですが、通常は、離婚の裁判や親権の審判までに1〜2年の時間が掛かってしまいます。
したがって、子供と同居した父または母が、その子供の面倒をみることになり、それが裁判ないし審判の直前まで続くことになります。
裁判所は、この生活状況に問題がなければ、これを尊重する傾向にあるので、極めて重要な考慮要素となるのです。
上記のとおり母親の方が親権獲得に関して有利であるとはいえ、子供が父親と暮らし、その生活に馴染んでしまった場合、父親の方に親権が認められてしまうケースもあるのです。
 
したがって、もし親権を獲得したいのであれば、別居時に子供と同居することが必要であり、かつ、相手に子供を連れ去られないことも重要となってきます。
上記⑦に「子の奪取の違法性」も、親権の考慮要素の一つとされていますが、個人的な感覚でいえば、近年問題視されるようになってはきておりますが、特に酷いケースでなければ、それ程重視されておらず、子供との生活状況の方が優先されてしまっているように思えます。
 
もし、子供を連れ去られてしまった場合には、子の監護権者の指定や子の引渡しの審判を求めたうえで、審判前の保全処分として、子の引渡しを求めることが必要になります。
なお、近年、民事執行法が改正され、子供の引渡しの直接強制が明記されました(新民事執行法174条〜176条)。こちらは、令和2年4月1日から施行されます。
 
結論:
親権を獲得するためには、配偶者と別居する場合には、子供と同居できるようにし、子供の連れ去りには注意しましょう。