弁護士黒澤真志のブログ

虎ノ門(西新橋)で法律事務所を経営している弁護士のブログです。日常の出来事や普段考えていること等について、フランクに綴りたいと思います。

「学問のすすめ」を読んでみた

先日、旧1万円札でお馴染みの福沢諭吉が記した「学問のすすめ」を読んでみました。といっても、私が読んだのは現代語訳バージョンですが、内容的にはほぼ同じだと思います(以下では現代語訳バージョンの記述で引用します。)。
 
この本は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な言葉から始まりますが、個人の尊重や平等に関する思想であり、現代でも通用している話です。
学問のすすめ」は、本当に重要なことが書かれております。この本は、100年以上前に書かれたものですが、なのになぜ、この本に書かれている内容が社会に浸透していないのかと、少し憤りを感じました。
福沢諭吉は、賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによってできるものであると述べています。そして、同人がいう「学問」は、和歌や詩などの実用性のない学問ではなく、「普通の生活に役に立つ実学である」としています。
私は学生時代のときに常に疑問に思っていたのは、義務教育の内容です。中学で習う国語、数学、理科、社会などは、これを学んでどうするのか、非常に疑問でした。なので、勉強にも身が入らず、大学受験のためだけに勉強したに過ぎません(なので、大学受験が終わった直後に忘れてしまったものも多いです。)。実際に社会に出てからも、これらが役に立った記憶はありません。
義務教育で学ぶべきことは、決して「国語」などの教科ではなく、社会に出てから一人前の独立した個人として、自分の頭で考え、自身の強みを活かし、人生を切り開いていけるようにする方法だと考えます。そのためには、どういう考えをもち、どういう思考でいるべきか、この本にはしっかりと書いてあります。興味がある方は是非読んでみてください。
 
個人的に興味深かった点を一つ取り上げると、福沢諭吉は、「怨望」(他人の幸福をねたんだり、うらやむこと)は最大の悪徳であると述べています(なお、欲張り、ケチ、贅沢、誹謗の類は、大きな欠点だけども、その本質は悪くないと述べています。)。「怨望」だけは、陰険で進んで何をするのでもなく、他人の様子をみて不平をいただき、他人に多くを求め、その不平を解消するために他人に害を与えようとするものであり、公共の利益を犠牲にして私怨を晴らすものであると述べています。
SNSなどを見ていると、世の中は、格差社会のせいか、怨望に溢れていると思います。インターネット上では有名人や特定の者に対する誹謗中傷がはびこっています。最近は「上級国民」などの用語が登場したりしていますが、これもある意味、怨望の表れかと思います。
福沢諭吉は「怨望」の原因を「窮」の一言に尽きると述べています。すなわち、人間の自然な働きを行き詰まらせる状態です。確かに、最近の世の中は閉塞しているように感じますよね。その原因として考えられるのは、インターネットの発達によって情報が溢れ、簡単に他人と他人を比較できてしまうことが一因なのではないかと思いますが、いずれにせよ、「窮」により「怨望」が誕生し、インターネット上において誹謗中傷などがはびこっているのではないかと思います。これを解消するためには、その原因を知って、それが自分の責任であることを理解することが必要であると、福沢諭吉は述べています。
この点に関して思うのは、「窮」は幻想なのではないかということです。つまり、多くの人は「窮」の状態であると思いこんでいるだけで、実際はそうではない、ということです。科学技術の進歩等により、私達の生活は日増しに良くなっています。ですので、実は個人ができることは多くなっているのです。なのに、それに気づけない。その一因は、国語や社会などの現実に役に立たない勉強ばかり教えている義務教育にあると考えます。私は、できることならば、多くの人に対してそのことに気づいてほしいと考えております。
 
最近は、メジャーリーガーの大谷翔平が大活躍していますが、私達は大谷翔平になることはできません。妬んでも意味がないのです。そうではなく、まずは自分自身ができることは何かを考え、それを実行していくことが必要なのではないかと考えます。妬む気持ちが自然に湧いてくるのは、もちろんやむを得ないことではあるかと思いますが、それをそのままにしておいたり、あるいは誰かを傷つけることによって晴らそうとするのではなく、発展的に解消することが求められることかと思います。
 
 

現代語訳 学問のすすめ (ちくま新書)

 

過去に漫画版も読んだことがあるのですが、読みやすくおすすめです↓

 

学問のすすめ (まんがで読破)