弁護士黒澤真志のブログ

虎ノ門(西新橋)で法律事務所を経営している弁護士のブログです。日常の出来事や普段考えていること等について、フランクに綴りたいと思います。

「イカゲーム」が面白かったので感想を

イカゲーム」というドラマをご存じですか?
 
 
これはNetflixで配信されている韓国のドラマで、配信開始から28日間で、1億1100万世帯で視聴され、ドラマのオリジナル作品としては史上最高記録となったそうです。
内容としては、借金地獄に陥った者たちが、いわゆるデスゲームに参加して、一攫千金の賞金の獲得を目指すという内容です。
よくある設定かと思いますが、役者の演技、ストーリー、カメラワーク、進行のテンポ等、全てが秀逸で、とても面白い内容でしたので、イカ(以下)、感想を書いてみたいと思います。
ネタバレを含みますので、まだ視聴されていない方は、先に作品を観ることをオススメします。なお、かなり残虐なシーンがあるので、苦手な方はみない方がよいかと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
それでは感想です。
韓国の映画やドラマは、明確に示されない仕掛けや暗喩が散りばめられていることが多く、本作品も同様ですが、その中で、個人的に印象に残ったのは、終盤で、デスゲームで勝ち残り、大金を得た主人公のソン・ギフンと、デスゲームの黒幕であった、おじいさん(オ・イルナム)が二人きりで立ち会うシーンです(おじいさんは人工呼吸器をつけてベッドのうえで横たわっています)。
このシーンで、初めて、黒幕がおじいさんであったことが明かされます(おじいさんは、黒幕ながらもこれを秘してデスゲームに参加し、途中で、主人公に先を託し、死んだことになっていました。)。
このときに着目すべきなのは、明示されてはいないものの、2人が同等の立場である点だと思います。
主人公は、デスゲームで唯一生き残り、456億ウォンを手に入れます。その過程で、様々な経験をしたことは、本編のとおりですが、個人的に思ったのは、おじいさんも、デスゲームの黒幕になれる程の富裕層に至るまでに、同様の経験をしたのではないかということです。
本編で、おじいさんは平凡な町の平凡な家で育ったことが明かされていますが(ミニチュアの家が登場します)、そこから上り詰めたのです。莫大な富を築くにあたっては、おそらく、機転を利かして困難を乗りきる経験や人々が一致団結して協力して勝利する経験のほか、仲間同士の争いや裏切り、もしかしたら殺しまでも経験したかもしれません。ときには「運」も必要だったでしょう。おじいさんは、「金もうけは楽じゃないさ」と述べていました。また、おじいさんは、主人公が大金を得たことについても「君が運と努力で勝ち取ったものだ」とも述べていました。
上記のシーンは、凄惨な経験をして大金を獲得し、同等な立場にて、2人が立ち会ったシーンということになるかと思います。
 
そして、2人は最後の賭けを行います。
真冬の時期に道端で寝込んでしまい、放っておいたら凍死してしまう路上生活者について、0時までに誰かが助けにくるかどうか。
そして、おじいさんは、主人公に対して、問いかけます。
 
「君はまだ人を信じるのか?」
 
おじいさんは、誰も助けない方に、主人公は誰かが助けにくる方に賭けることになります。
結局、主人公が賭けに勝つとともに、おじいさんはその瞬間に病で亡くなってしまうわけですが、私にとって、とても印象に残ったシーンでした。
おじいさんは、なぜ、最後にこのような賭けを仕掛けたのでしょうか。ひとつの解釈としては、「楽しむため」ということが挙げられると思います。おじいさんは、デスゲーム中で主人公を生かした理由について、「楽しかったから」と答えていたからです。これが一番ストレートかもしれません。
しかし、私が感じたのは、おじいさんは、もしかしたら人を信じたかったのではないか、ということです。人を信じることの可能性を、主人公に託したとも言えるかもしれません。
 
デスゲームの決勝で、主人公は、非道な行為ばかりを行ってきた幼なじみのチョ・サンウとイカゲームで直接対決を行いました。主人公が、サンウを追い詰めた際、ゲームを放棄して一緒に帰ろうと提案しましたが、サンウは自ら命を絶ちました。それまで、非道の限りを尽くして勝者になろうとしていたにも拘わらずです。
サンウが非道の限りを尽くしてまで賞金の獲得に拘ったのは、母親のためであったかと思います。多額の借金を背負ってしまったのは自業自得の面はあるかと思いますが、母親に迷惑をかけないために、あらゆる手を尽くしました。
しかし、自ら命を絶ったのは、本来の優しさのある、主人公の幼なじみのサンウの姿だったのではないかと思います。
 
人は切羽詰まってしまった場合、本来の自分を発揮できないのではないかと思います。正常な判断能力を失ってしまい、時にはやってはいけないことをやってしまうこともあるのではないかと思います。
しかし、それは、その人の本来の姿ではないと思います。切羽詰まってさえいなければ、他人に対する優しさや思いやりを持っているのではないかと思います。
それこそが、人の可能性ではないかと思います。
私は、もし「人を信じるのか」と尋ねられた場合、そのような人の可能性を信じていると答えようと思います。
 
ともかく、冒頭で述べましたとおり、韓国の映画やドラマは暗喩的な要素が多分に盛り込まれているため、様々な解釈が可能かと思います。上記はもしかしたら間違っているかもしれませんが、それも織り込んで、あれこれ言いながら楽しめるのがよいですね。
みなさんも、何か気づいた点などがあれば、お聞かせいただければと思います。